自慢させてください。僕はこの場にいました。
伊藤慶二
国島征二
鯉江良二
田島征三
目の前で、生きて、存在している、その声、表情にふれると
一つの人生にふれたように感じるのです。
4人がそれぞれ、見事に違うのです。
4つの人生がたしかにある、という点において
同じ重みで、ここに集まっているのです。
無駄話はするけど、よけいなことは一つも言わない。
70数年生きてなお、思いは今にあるようです。
名古屋のLギャラリーにて開催中の「4次展」初日。
4月4日午後4時44分より始まった作家によるトークセッションに駆けつけた人たちで
ギャラリー空間は満員電車のよう。
正直作品と静かに向き合うことはむずかしかったですが、人のあいだをするりと抜けて
あちこちに点在する作品を目に焼き付けて帰りました。
みんなが帰ったあとギャラリーに残る作品たちを想像すると
またまたにぎやかなおしゃべりが始まりそうです。
展覧会は4月26日(日)まで。
先週、「愛知ノート」が無事終わりました。
お越しいただいた方々、ありがとうございました。
今回の展示はこれまでで最も大きなスケールに挑戦しました。
いま、この機会にやっておかなくては、と僕にしては気負いたっぷりに。
感想を直接に聞く機会はあまりないのですが、静かに、確かに、じわじわと
伝わっているような手ごたえはあります。
皆さまには、どのように受けとめていただけたでしょうか。
さて、無事終わりました、とは言ったものの、ほんとうは無事ではなかったのでした。
中庭に展示してあった球体作品の一つが壊れたのです。
それも最終日の3月15日、程なく閉館だという頃に!
ああ、とうとう。そうか。
とはいえ今まで壊れなかったのが不思議なくらいでした。
傾斜のある丘の上だし、球体だし。
留めてある杭をはずれ、転がりだせば、もうその後は想像したくない、
いや、想像するだけなら楽しいかもしれません。
野外で展示する以上、壊れることもあると覚悟はしていたものの
最後の最後にそれが起こってしまったことに単なる偶然ではない、
この作品の運命のようなものを感じてしまいます。
運命というと大げさですが、けっして事件ではない、自然の成り行きのように思えたのです。
子どもたちが球体で遊ぶ姿を見るにつけ、はじめは危なっかしくて気が気でなかったのですが
心配しながらも、どこかうれしいような気分がありました。
それは作品にとっても僕にとっても本望だ、ということだったかもしれません。
ついさわっちゃう、とび箱みたいにとんじゃう、という行為を喚起する何かがこの作品に
はあるということです。人と球のあいだには遊びが生まれていました。
そういえば毎度毎度、鳥のフンが球に命中してたっけ。
鳥と球のあいだにも何かが生まれていたのでしょう。
なんにせよ怪我がなくてよかった。ほんとうによかった。
タイトルにある「感じる」の部分がこの展覧会の楽しいところで
縄文時代の道具や食べ物、縄文人の骨(全体!)などを通じて
その暮らしや環境を想像することができる。
有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)という美しい石器が目に留まった。
この石器の表面には規則正しく並んだあとがある。
それはどうやらシカの角で押しはがした剥離痕なのだそうだ。
石の表面を押しはがすのか、縄文人。
圧巻は縄文土器である。
なぜこんなものを作ったのだろう。
観れば観るほどわからない。が、とても好きだ。
ここで観たものを記録したいと土器の全体や細部、また
様々な石器をスケッチする。
(スケッチはご遠慮下さいとあったが、鉛筆を借りた際に許しを得た)
土器を観ていくうちにあることに気が付いた。
多くの土器の口縁部が「波打っている」のだ。
土器の文様として表れた波が、うごめき、土器全体に振動し、
その際(キワ)の部分に余韻を残して終わっている。
波打ち際だ、と思った。
土器に水を入れて魚や貝を煮ると、ますます土器は海に似てくる。
とまあこんな事を考えて一人興奮していたのだった。
観終えたところでガイドブックなるものが売っていて
ぜんぶ図版にあるやん、となったが、スケッチすることで
色々と発見があったり、より深く心に刻めたので良しだ。
つくづく物に直にあたることが大切だなと思う。
そこでは、まさに「感じる」ことができるから。
手に触れられたらもっと良いだろう。いつか触ってみたい。
博物館の常設では、旧石器時代から現代にいたる様々な展示が
繰り広げられていたが、縄文コーナーで学芸員のおじさんに色々
と教えを乞うているうちに、とうとう時間切れとなり、ついには弥生
時代までしかいけなかった。近いうちにまた行こうと思う。
今、縄文への情熱がこれまで以上に高まっている。